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徳島地方裁判所 昭和35年(ワ)240号 判決 1964年4月24日

原告 松田照市 外二二名

被告 中岩倉土地改良区

主文

一、原告らは徳島県美馬郡脇町所在井口谷の流水(上流水および伏流水の)について、水田の耕作に必要な期間、原告ら側設置の同町字井口栃木所在井口へかかる分木(幅四寸)の箇所において、その流水の深さが、被告側設置の同所所在岩倉へかかる分木(幅一尺七寸三歩)および上ノ原へかかる分木(幅一尺七歩)の箇所における流水の深さと相等しくする水利権を有することを確認する。

二、被告は原告らが右各分木における流水の深さを相等しくするため、別紙図面記載の上横樋の上にある流水の障害物を取除き、または該横樋に莚をかけることを妨害してはならない。

三、原告らのその余の請求を棄却する。

四、訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの、その余を被告の負担とする。

事実

原告ら訴訟代理人は「一、原告らは徳島県美馬郡脇町字井口栃木所在の岩倉へかゝる分木幅一尺七寸三歩の、上ノ原へかゝる分木幅一尺七歩の、井口へかゝる分木幅四寸のところにおいて、その流水の深さを相等しくする水利権を有することを確認する。二、被告は原告らが右各分木における流水の深さを相等しくするため、別紙図面記載の上横樋の上にある流水の障害物を取除き、または該横樋に莚をかけることを妨害してはならない。三、被告は別紙図面記載の上横樋の東側堤防より該横樋の上に置いてある一個の長さ五米、幅一・二米、高さ〇・六米の金網巻一〇個を、いずれも一個の長さ四米、幅一米、高さ〇・四米のものに取替えせよ。四、被告は原告藤重猶往に対し金七、八四〇円、原告藤本房重に対し金一万一、七六〇円、原告松田静夫に対し金一万九、六〇〇円、原告松田洋一に対し金四、九〇〇円、原告藤本晴生に対し金一万四、七〇〇円、原告藤本高太郎に対し金四、九〇〇円、原告藤本徳太郎に対し金一万九、六〇〇円および右各金員に対する昭和三五年一月一日より完済まで年五分の割合による金員を支払え。五、訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに右二項および四項につき担保を条件とする仮執行の宣言を求め、その請求の原因として

一、原告らは徳島県美馬郡脇町井口字に水田を所有し、同町字井口栃木所在の別紙図面表示の井口谷の流水を井口下横樋、井口用水路に受けて、右水田を灌漑している者の全員で、通称井口養水組合と称する任意組合を組織しているもの、被告は右井口谷の流水を上横樋、岩倉用水路に受けて、その組合員所有の水田を灌漑しているものである。

二、右の井口谷の地上および地下を流れる水は寛文一〇戍年以前より、脇町上ノ原、岩倉方面の水田と同町井口方面の水田との灌漑用水のため、別紙図面表示のとおり上横樋、井口下横樋と岩倉用水路、井口用水路を設け、岩倉字へかゝる分水幅一尺七寸三歩の上ノ原字へかゝる分木幅一尺七歩の、井口字へかゝる分木幅四寸のところにおいて、その流水の深さを相等しくして岩倉、上ノ原字と井口字へ分水する慣行が確立されており、右慣行に従つて分水されて来た。すなわち、右慣行は次のとおり双方によつて確認されて来た。

(1)  寛文一〇戍年六月二四日岩倉村庄屋、孫三右衛門と井口村庄屋、藤左衛門との間に、岩倉村へかゝる分木幅一尺七寸三歩上ノ原へかゝる分木幅一尺七歩、井口へかゝる分木幅四寸と定め、右各分木を流れるその流水の深さを相等しいものとする旨の覚書が作され、右慣行が確認された。

(2)  大正一四年四月一五日被告の前身である中岩倉普通水利組合と原告らが組織している井口養水組合の代表者との間に、右普通水利組合において設置していた上横樋五挺のうち吹出口より三挺は、その内法一尺二寸を二尺と改めることを原告らにおいて承認するとともに、前記当事者間において従来施行しつゝある曲尺分水の方法は、時期の何時たるを問わず、そのいずれかが、要求すれば双方立会の上で、分木における流水の深さを均等にすることを確認し合つた。

(3)  昭和一四年三月一四日右中岩倉普通水利組合の管理者と右井口養水組合の代表者との間に、岩倉字および上ノ原字へかゝる分木に引水する木製の上横樋をコンクリートに改造することおよび曲尺分水の場合藤本壮衛方前に設置してある旧排水路より井口字へかゝる分木に流水するように分水し、もつて分木における流水の深さを均等にすることを確認し合つた。

以上のように岩倉、上ノ原字と井口字の間に井口谷の流水の分水による水利用が長年にわたつて反復継続され、井口字に水田を所有する原告らと岩倉、上ノ原字に水田を所有する組合員によつて構成されている被告(その前身を含む)によつて、その水利用が互に承認されて来て、慣行による水利権が成立しているものである。そこで被告に対し原告らが右井口谷の流水(上流水および伏流水の)につき脇町字井口栃木所在の岩倉へかゝる分木幅一尺七寸三歩の、上ノ原へかゝる分木幅一尺七歩の、井口へかゝる分木幅四寸のところにおいて、その流水の深さを相等しくする水利権を有することの確認を求める。

三、仮に右慣行による水利権が成立していないとしても、原告らと被告の間に右二項の(1) (2) (3) の事項を内容とする契約がなされ、該契約にもとづく水利権が成立しているのである。

四、被告は最近次第に耕作面積を著しく増加したため、その水不足を生じつゝあるところから、原告らに対し言いがかりをつけ、長年の慣行ないし契約として、原告らの有する水利権を否認して、これを争い、原告らが分木における流水の深さを相等しくするため、その代表者の立会を求めてもこれに応じないのみか原告らにおいて被告の設置している上横樋の上にある流水の障害物を排除しようとするとこれを妨害し、また該横樋に莚をかけ原告らの設置している下横樋に水が流れこむようにすると、被告においてその莚を取除いてこれを妨害するのである。そこで被告に対し原告らが右各分木における流水の深さを相等しくするため、別紙図面記載の上横樋の上にある流水の障害物を取除き、または該横樋に莚をかけることを妨害してはならない旨の不作為の給付を求める。

五、原告らの組織する井口養水組合の代表者は被告に対し昭和二九年四月九日、原告らが被告において水源地の上横樋修繕のため伏樋石巻工事を金網巻立にすることを承認するが、しかし被告は右金網巻(フトン籠と称し金網に石を入れたもの)の大きさを、長さ四米、幅一米、高さ〇・四米であつた従前の伏樋石巻の大きさと同じにすることを約した。しかるに昭和三五年において、この金網巻一個の大きさを長さ五米、幅一・二米、高さ〇・六米とし、これを一〇個上横樋の東側堤防より該横樋の上に置き水が下流の原告らの分木のところに流れ入るのを妨害しているのである。そこで被告に対し別紙図面記載の上横樋の東側堤防より該横樋の上に置いてある一個の長さ五米、幅一・二米、高さ〇・六米の金網巻一〇個を、いずれも一個の長さ四米、幅一米、高さ〇・四米のものに取替えることを求める。

六、原告藤重猶往は田二反五畝歩、同藤本房重は田三反三畝歩、同松田静夫は田五反五畝歩、同松田洋一は田一反五畝歩、同藤本晴生は田四反歩、同藤本高太郎は田一反五畝歩、同藤本徳太郎は田四反五畝歩を右井口字にかゝる用水によりそれぞれ耕作しているところ、昭和三四年の米作期において、被告が前記のように各分木における流水の深さを相等しくすることに協力せずかえつてそれを妨害したため、右の原告らの水田に対する灌漑水が著しく減少したので、稲の発育が極めて悪く、それによつて米(三等米)を、原告藤重猶往は八斗、同藤本房重は一石二斗、同松田静夫は二石、同松田洋一は五斗、同藤本晴生は一石五斗、同藤本高太郎は五斗、同藤本徳太郎は二石の減収となつたのである。しかして米(三等米)の生産者価格は一斗当り九八〇円であつたから、原告藤重猶往は金七、八四〇円、同藤本房重は金一万一、七六〇円、同松田静夫は金一万九、六〇〇円、同松田洋一は金四、九〇〇円同藤本晴生は金一万四、七〇〇円、同藤本高太郎は金四、九〇〇円、同藤本徳太郎は金一万九、六〇〇円の損害を被つた次第である。そこで被告は原告藤重猶往に対し金七、八四〇円、原告藤本房重に対し金一万一、七六〇円、原告松田静夫に対し金一万九、六〇〇円、原告松田洋一に対し金四、九〇〇円、原告藤本晴生に対し金一万四、七〇〇円、原告藤本高太郎に対し金四、九〇〇円、原告藤本徳太郎に対し金一万九、六〇〇円および右各金員に対する昭和三五年一月一日より完済まで年五分の割合による金員の支払いを求める。

被告訴訟代理人は「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求め、答弁として

(一)  請求原因一項の事実は認める。

(二)  請求原因二項の事実について

いつのころからか判らないが、旧幕時代より原告ら側分木幅四寸、被告側分木一尺七寸三歩および一尺七歩計二尺八寸が設けられ、前記井口谷の流水を分水していたことは認める。

(1)  寛文一〇戍年六月二四日原告ら主張の覚書が作成されたことは争う。

(2)  大正一四年被告の前身である中岩倉普通水利組合の管理者たる村長代理助役高部弘一が井口養水組合の代表者と原告ら主張のような覚書を作成したことは認める。

しかし当時は町村長が普通水利組合の管理者となる定めであつたところ、当時、村長がなく他より右高部弘一を招いて助役になつてもらつていたので、土地の事情に暗い同人が中岩倉普通水利組合を代表する権限がないのに、右覚書を作成したもので、なんら効力がないし、実際の慣行とは異つている。

(3)  昭和一四年三月一四日原告ら主張のとりきめをなしたことは争う。

仮に原告ら主張のとりきめがなされていたとしても、藤本壮衛方前排水路は現に存在せず、この地点は用水路の方が低いので排水路を設置することは困難であるし、未だ一回もこれより分水された事実はない。

以上のとおり原告ら主張のような分木でもつて分水して来たことは事実であるが、それは上横樋に上流水が届かなくなつた、いわゆる渇水期に限つて分水するという慣行が確立しているのであつて、その慣行が黙々として実行され、なんらの紛争もみないで経過して来たのである。互に農民として血にも代るべき水のことであるから、水に窮する時の心情は察してあまりあり渇水期に分水するに吝ではないが、常時水深を等しくする水利権が原告らにあるとなす主張は認めがたい。

(三)  請求原因三項は争う。

(四)  原告らは被告が開田増段したと主張するが、逆であつて被告側は現在段別五三町二反であるところ、昭和一五年(県知事認可当時)四七町三反二二歩であつたのに反し、原告ら側は現在約六町歩であるが、用水費賦課対象の段別は一町七反強であり、開田増段したのは原告ら側というべきである。昭和三四年七月六日田植時期に渇水になつたので、原告らから被告側の植付がすんだらできるだけ水をくれとの申入に接し、双方協議の上、便宜トタン樋を通して被告の上横樋から分水することになつたところ、原告らの誰かが被告側の上流をせき止める等して盗水したので、被告において井口字への分水を中止するにいたつたのである。もともと渇水期にのみ分水する慣行であつたものを原告らは被告が集めた水を労せずしてとろうとするものである。

(五)  金網巻立は原告ら主張のとおり昭和二九年四月九日両者合意のもとに定められたものであるが、金網巻立の大きさについては、なんらの定めもしたことはないし、伏樋石巻の大きさは長さ五米、幅一米、高さ〇・六米よりもさらに大きいものであつた。金網巻立は上横樋をおゝつて保護するためのものであり、その大小はなんら流水に影響するものではない。

(六)  原告ら主張の損害の点はすべて否認する。農業共済組合の記録によれば、渇水による原告らの被害は皆無である。

(七)  よつて原告らの請求は理由がないから、棄却さるべきである。証拠<省略>

理由

一、原告らが前記脇町井口字に水田を所有し、同町字井口栃木所在の別紙図面表示の井口谷の流水を井口下横樋、井口用水路に受けて、右水田を潅漑している者の全員で、通称井口養水組合と称する組合を組織しているものであること、被告が右井口谷の流水を上横樋、岩倉用水路に受けて、その組合員所有の水田を潅漑しているものであることは当事者間に争いがない。

二、そこで原告ら主張の水利権の存否について検討する。

旧幕時代より原告ら側の井口へかかる分木幅四寸、被告側の岩倉へかかる分木一尺七寸三歩および上ノ原へかかる分木幅一尺七歩計二尺八寸が設けられ、前記井口谷の流水を分水していたことは当事者間に争いがない。

証人藤本壮衛、同松田幸、同多田雅利、同国見信太郎(後記措信しない部分を除く)、同木村林市(後記措信しない部分を除く)、同戎忠一(後記措信しない部分を除く)、同田所一男、同村上岩太郎の各証言と原告藤本高太郎(後記措信しない部分を除く)、同藤重猶往(後記措信しない部分を除く)、同藤本正見(後記措信しない部分を除く)被告代表者(後記措信しない部分は除く)の各本人尋問ならびに検証(二回)の各結果を綜合すると次の事実が認められる。

別紙図面表示の前記井口谷を南に流れる上流水ならびに伏流水は、被告改良区が井口谷の川底に設置する上横樋に導入され、被告の設置する岩倉用水路に流れ出で、同水路を流下して一部は直接、一部は一旦被告の貯水池(約一町七反歩、深さ四三尺位)に貯えられた上(水田耕作時以外の期間中は満水に至るまで池に貯水して置く)、被告の組合員所有の水田五三町二反六畝二二歩に潅漑され、一方右上横樋を越えて流れる上流水ならびに右上横樋より下流の伏流水は、右上横樋より約一四六米下流に原告らが設置する井口下横樋へ(一部は被告の設置する岩倉横樋へ)導入され、原告らの設置する井口用水路に流れ出で、同用水路下流の原告らの水田約五、六町歩に潅漑されている。

しかして右岩倉用水路には岩倉へかかる分木と上ノ原へかかる分木の二個があるが、現在岩倉字と上ノ原字は町村合併で脇町となつたので、いずれも被告改良区に編入され、岩倉へかかる分木より流下する水は、その直ぐ下流でせき止められて、上ノ原へかかる分木から流下した水と合流して前記被告の組合員所有の水田あるいは被告の貯水池に流れ込むようになつている。

元来右各横樋附近の井口谷は幅約二〇間位の谷川で、上流水が少なく(その流水も豪雨の都度その水筋が変る)、夏季に長く降雨がないと玉石と栗石が累積された河原の所々に水溜が散見される程度のものであるので、原被告らがその潅漑用水源を主として右河原の伏流水に頼つておるのであるが、上流水が上横樋にも届かない程になつた場合は勿論、上横樋の下流二五米ないし三〇米附近のところで枯渇するような場合には、井口下横樋に流れ込む水量が少くなるため、井口用水路を流れる水量は著しく減少し、これが水田の植付時期ならびにその後の潅漑を要する時期に当ると、原告らの水田はたちまち水不足におちいるのである。かような状態は毎年あるわけではないが、昭和三〇年に二、三回、昭和三一年に一、二回、昭和三三年に一回位、原告らは水田の植付ならびに潅漑用水の不足を生じ、水の必要に迫られて被告に分木要求をなしたのである。被告はその都度役員協議の上、快くこれに応じ、上横樋から原告らに分水してやつた。しかしてその分水の方法は被告の役員が原告らに分水の日時を指定して通知し、原、被告双方の代表者らが前記分木附近に集合し、原告ら側の井口へかかる分木と被告側の岩倉ならびに上ノ原へかかる分木の両方の流水の深さを、尺または木切で計つて、井口へかかる分木の深さが如何程少いかを見定めた上、相たづさえて上横樋におもむくのである。そうして上流水が上横樋にも届かないような場合には、被告において原告らの協力を得て井口谷の上流三粁位まで遡り、いわゆる谷田の掛けはずしといつて途中の盗水を防ぎ、障害物を除去し、小井手をつけ流水を集めて上横樋に誘導するのである。かくして原、被告立会の上で主として原告ら側の代表者が上横樋の上を覆つている金網巻(八番線針金の金網に玉石、岩石を入れたフトン籠と称するもの)の上に障害物があればこれを取除き、砂利等を入れて水路を作り上流水を下流に流すようにし、さらに井口下横樋に届くまでに河原に滲透するのを防ぐため、赤土で水路を作つて井口横樋に導入したり、あるいは金網巻の上に莚を敷き両端を莚が流失しないように石で押え、莚の目から水が洩らないように莚の上に小砂を散布し、莚の両端を幾分高くして樋状にし、上流水を井口横樋に流れ込むように放出した。なお上流水が上横樋に届かないような場合は、原告らにおいて赤土を運んで来て河原に水路をこしらえ右金網巻の上に前同様莚を敷き、または赤土をぬつて踏みかため、上流水を井口下横樋に向けて流下させることもあつた。かようにして数時間を経過すると井口横樋に流れ込む水量は多くなり、井口にかかる分木の流水の深さは目に見えて深くなつて来るので、再び尺または木切で深さを計り、岩倉ならびに上ノ原にかかる分木の流水の深さと比較するのである。そうして井口にかかる分木の流水の深さが深過ぎるときは上横樋を越える流水を一部石等でせき止めて上横樋に流し込むようにし、また浅いときは上横樋の上をさらに多量の水が越して流れるように加減調節するという方法をとつたのである。右のように分木の流水の深さをほぼ同じにしておいて三、四日を経過し、井口にかかる分木の流水の水位が下ることがあれば、原告らは再び前同様の分水要求をなし、被告代表者立会の上で分水の措置をとつていた。しかして前叙数回の分水はいずれもかような方法でなされたが、被告において何らの異議もなく、至極円満に行われて来たものである。

このような事実が認められ、証人西村三十郎、同国見信太郎、同木村林市、同戎忠一、同山本堅一、同田所一男、同国見与三郎、同村上岩太郎の各証言ならびに被告代表者本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信し得ない。

原告らは右井口谷の流水について、常時前記各分木の深さを同じくする水利権を有し、もし谷の流水が減じて、原告らの分木点まで導入された水量が、被告設置の分木における深さにまで達しないときは時期の何時たるを問わず各分木の深さを同じくするまで分水するのは古くからの慣行によるものであると主張し、被告はこれを争い、上流水が上横樋にも届かないような渇水期にのみ分水するのが旧慣行である、と主張するので考えてみる。

(1)  原告藤本高太郎本人尋問の結果によつて真正に成立したと認める甲第一号証と同供述ならびに証人木村林市の証言によると、岩倉村庄屋弥三右衛門と井口村庄屋藤左衛門との間で寛文一〇戍年六月二四日に「一、岩倉村江懸ル分木幅壱尺七寸三歩也、一、井口へ掛ル分木幅四寸也、一、上ノ原江懸ル分木幅壱尺七歩也、右者先年より相定通成田孫之進殿久田政右衛門殿御出相たん御改被成右之分木御すへ被成候上ハ重而一条ニ違乱申間敷候也」という御用水分木御定之覚と題する書面が作成され、これが原告らの井口養水組合に保存されており、古くは耕作反別が岩倉、上ノ原合わせて一二町歩、井口二町歩であつたため、その反別にほぼ比例して、分木の幅の大きさも岩倉、上ノ原合わせて二尺八寸、井口四寸と決つたと言い伝えられていることが認められ、右事実に徴すると、井口谷の流水は寛文一〇戍年以前から被告側の岩倉、上ノ原部落(当時は村と称したと推測される)と、原告ら側の井口部落へ、耕作反別に従つて平等に分水する慣行があり、その平等分水のために流水の水量を測定して深さを相等しくする施設として前記各分木が作られておつたところ、右御用水分木御定之覚と題する書面によつて、当時の藩役人立会の上、岩倉、上ノ原部落民代表者たる庄屋と井口部落民代表者たる庄屋によつて互にこれを確認し合つたものと認めるのが相当である。

(2)  成立に争いのない甲第二号証によると中岩倉普通水利組合(以下甲と略称する)の管理者岩倉村長代理助役高部弘一と井口養水組合(以下乙と略称する)の代表者松田武平外五名との間で大正一四年四月二五日、「一、甲ノ経営スル上横樋ハ旧慣ニ依レハ樋ノ内法壱尺二寸ナルモ今回据替ヘントスル樋五挺ノ内参挺(壱挺ノ長サ拾四尺)ハ吹出口ヨリ上流ニ向ヒ内法ヲ弐尺トシ最後旧樋ニ接続スル部分ハ旧樋ノ寸法ト同様ニシテ接続セシムルコトヲ乙ニ於テ承諾ス。二、乙ハ大正拾弐年度ニ於テ甲ノ施工シタル樋(壱挺ノ長サ拾四尺)内法弐尺ノモノ弐挺ハ之ヲ前項ノ樋ト倶ニ之レガ設置ノ権利ヲ永久ニ承認スルモノトス。但シ爾余ノ樋ハ旧慣(内法壱尺弐寸)ニ依ル。三、甲乙ニ於テ従来施行シツツアル曲尺分水方法ハ時期ノ何時タルヲ問ワス甲乙何レヨリ要求スルモ両者立会ノ上之ヲ実行スルコトヲ相互ニ承諾スルモノトス。」との覚書と題する書面が作成、取交わされたことを認めることができる。

もつとも被告は右村長代理助役高部弘一は中岩倉普通水利組合を代表する権限がないのに右覚書を作成したものであるから無効であると主張するが、これを認めるに足るなんらの立証もなさないし、かえつて成立に争いのない甲第五号証に徴すれば、右高部弘一は中岩倉普通水利組合の組合会の承認の決議を経たことが窺えるので、右主張はこれを認めることができない。

右事実に徴すれば、上横樋の内法の大小は井口養水組合の井口下横樋の水量に重大な影響を及ぼすので、被告の前身である中岩倉普通水利組合が樋の据替えに当り、予め井口養水組合の承認を求めたものか、または中岩倉普通水利組合が井口養水組合に無断で樋の据置工事に着工したので井口養水組合から異議が申立てられたかのいずれかによつて、かような覚書が作成されたと推認でき、右は井口養水組合が慣行により分水を受ける権利を有していることの証左と考えられるし、しかのみならず、この際も中岩倉水利組合と井口養水組合との間において従来慣行として施行しつつあつた前記各分木における水流の深さを相等しくする曲尺分水の方法は時期の何時たるを問わず(ただし、後記説示のとおり。)双方いずれより要求した場合にも両者立会の上で、これを実行しようと確認し合つたものと認めるのが相当である。

(3)  成立に争いのない甲第三号証によると右中岩倉普通水利組合管理者岩倉村長丹羽美住外九名と右井口養水組合代表者村田武市外二名との間で昭和一四年三月一四日、「一、上横樋現在木製ノモノヲコンクリートニ改正スル事。一、寸法ハ従前ノ通リトス。右井口養水組合ニ於テ承認ヲナス。一、曲尺分水ノ場合ハ藤本壮衛氏前旧排水路ヨリ分水ノ事ヲ中岩倉普通水利組合ニ於テ承認ヲナス。」との契約証と題する書面が作成取交されたことが認められる。

右事実に徴すれば、井口養水組合において上横樋の木製樋をコンクリート樋に変えることを承認するとともに、従前からの前記各分木における水流の深さを相等しくする曲尺分水の場合には、被告の前身である中岩倉水利組合の設置する岩倉用水路に一旦流れ出でた水を、別紙図面表示の藤本壮衛方前旧排水路から直接井口下横樋に放出して、分水の便宜をはかることを右中岩倉水利組合において承認したもので、中岩倉水利組合と井口養水組合との間において従来慣行として施行されて来た右曲尺分水を確認し合い、一層これを強固にしたものと認めるのが相当である。

事実が以上のとおりとすると、岩倉、上ノ原字と井口字の間に寛文一〇戍年以前から井口谷の流水を、それぞれの耕作反別に比例して分水して利用してきたのであるが、その割合は古くからほぼ一定していて前記各分木を流れる水の深さを同じくするものとしてきたのである。従つてその比率は原告ら側分木が四寸で被告側の岩倉、上ノ原両分木を合すと二尺八寸である故、被告側は七に対し原告ら側は一の割合である。ところが原被告らが右の如く水源を同じくする谷川の流水を分水利用するについて、いずれも川底に工作物(横樋)を設けて流水(主に伏流水)を集め各自の用水路に導入する方法をもつて水を獲得するので、その工作物の設置の場所およびその方法についてはおのずから右の比率分水が容易に達せられるような措置がとられ、また、とられてきていなければならない。そこで被告側は原告ら側の七倍も多く分水を受けるので、原告らと同じ下横樋(下流に向つて原告らの樋は右方被告の樋は左方に存在する)の外に、その約一四六米上流に上横樋を河幅一ぱいに施置したものと認められるが、その反面被告側において右上横樋を勝手に拡大し、この樋によつて水を多く獲得すれば、下流の原告ら側の下横樋に流下する水量が激減し、原告らの前記比率の流水利用権は侵される結果となるので、特に被告の上横樋の据替え、その他構造を変更する工事をなす場合は、その都度必ず互に協議を遂げ、原被告相互了解の下になされてきた。しかも、その協議において右の分水比率が維持されるよう、その施策について、古くから両者間においてその努力が払われてきたことは前記事実に照し疑いのないところであり、また、降雨が少くて上流水が減少した場合は被告の上横樋は原告ら下横樋の上流の、しかも接近場所にあるため、その殆んどが被告の上横樋に落下して原告ら横樋にまで流下せず、従つて前記分水比率がくずれ原告ら側において水不足にあえがざるを得ない結果となるので、上流水が自然のままでは被告の上横樋を越さないような場合は前記認定のように人工的措置(横樋の上にある流水の障害物を取除き、または横樋に莚をかける等)を施し、流水が被告の上横樋を越して原告らの下横樋へ流下するような方法を講じ前記各分木の深さを相等しくする分水をなしてきたのである。

そうして以上の措置は長年反覆継続されて慣行となり、井口字に水田を所有する原告らと岩倉、上ノ原字に水田を所有する組合員によつて構成されている被告(その前身である中岩倉普通水利組合を含む)によつて、右の措置方法による水利用の慣行が互に承認されておつたものと認められ、慣行による水利権が成立しておるといわねばならない。しかしてその水利権の内容は結局その根底に渇水期であると否とにかかわらず原告らに四寸、被告に二尺八寸の各分木における流水の深さを相等しくする基本的権利が双方に存し、その結果として前示の各措置がとられたものとみるのが相当である。

そうすると原告らの有する水利権は被告から恩恵的に余水ある場合にのみその利用を許される、いわゆる余水利用権的なものではなく、前記比率による分水が慣行にもとづく七対一の比率すなわち八分の一の割合の共同利用権の性質を有することは明らかである。しかし、その権利は、被告側が組合員所有水田の潅漑に直接利用する外、古くから貯水池を設け水田耕作時(植付けおよび潅漑時)前から溜池に貯水するために流水を利用してきた(しかして原告らは長年これを承認してきている)のと異り、ただ水田耕作時に稲作に必要のため本件谷の流水を利用してきたに過ぎないのであるから、原告らの本件水利権はその必要の限度にとどまるものといわなければならない。従つて原告らが渇水期に限つて分水を受ける権利を有するに過ぎないとする被告の主張は失当であり、原告らは本件谷の流水について水田の耕作に必要な期間、原告らの分木の箇所において、その流水の深さが被告の岩倉および上ノ原へかかる分木の箇所における流水の深さと相等しくする水利権を有することは明らかであるから、これが確認を求める原告らの請求は右の限度において理由があるがその余は失当である。

三、右のとおり慣行による水利権の成立を認めるので、原告らの仮定的主張である契約による水利権成立の主張については判断を省略する。

四、次に原告らの不作為を求める請求について考えてみる。

被告が原告の右水利権を争つていることは弁論の全趣旨に徴して明らかであり、成立に争いのない甲第七号証と証人藤本壮衛、同松田幸の証言ならびに原告藤本高太郎本人尋問の結果によれば、昭和三四年七月頃前記上横樋からトタン樋によつて直接、井口下横樋に分水した際にも、原告らが盗水したとのことで被告側において右トタン樋を勝手に取りはずしたこと、本件訴訟提起後の昭和三五年七月頃にも被告組合員の誰かが、前記上横樋の金網巻の上に石や莚を置いて右上横樋を越して流れる上流水をことさらにせき止めたことが窺えるから、原告らが将来右各分木における流水の深さを相等しくするため、被告の設置している上横樋の上にある流水の障害物を取除いて排除しようとするのを被告側において妨害するおそれなしとしないし、また右の目的で上横樋に莚をかけることを妨害するおそれもないとは保し難いので、被告に対しこれらの妨害をしないことを求める不作為の請求も理由があるといわねばならない。

五、原告らの組織する井口養水組合の代表者が、被告に対し昭和二九年四月九日、原告らが被告において水源地の上横樋修繕のため伏樋石巻工事を金網巻立にすることを承認する旨の合意をなしたことは当事者間に争いがない。原告らは被告は右金網巻の大きさを、従前の伏樋石巻の大きさ、すなわち長さ四米、幅一米、高さ〇・四米にすると約したのに、この金網巻一個の大きさを長さ五米、幅一・二米、高さ〇・六米としたと主張するが従前の伏樋石巻の大きさが長さ四米、幅一米、高さ〇・四米であつたとの立証をなさないので、その余の判断をするまでもなく、これを認めることはできない。もつとも成立に争いのない甲第六号証と原告藤本高太郎本人尋問、検証(第二回)の各結果ならびに弁論の全趣旨によれば、昭和三七年九月頃被告側において従前の金網巻を一部修理するに当り、長さ約四米、幅約一米、高さ約〇・四米であつた従前の金網を幾分大きくしかけていたところ、原告らから異議があつたので、従前どおりの大きさにしたことは認められるが、右は本訴係属中であるから徒らに紛争の種をつくつて原告らを刺戟すまいとの考慮によるものであることが窺われるので、これを以て右約定を認める証拠とすることはできない。

そうすると原告らの右上横樋の東側堤防より該横樋の上に置いてある一個の長さ五米、幅一・二米、高さ〇・六米の金網一〇個を、いずれも一個の長さ四米、幅一米、高さ〇・四米のものに取替えることを求める請求は理由がない。

六、原告らは昭和三四年の米作期において被告が各分木における流水の深さを相等しくすることに協力せず、かえつてそれを妨害したため、原告らの水田に対する潅漑水が著しく減少したので稲の発育が極めて悪く、それによつて収穫の減収を生じ、各原告主張の損害を被つたと主張し、原告藤重猶往、同藤本房重、同藤本高太郎各本人は、それぞれ自己の主張に副う供述をし、証人松田幸の証言および原告藤本正見本人尋問の結果中にも原告らの主張に副う証言と供述がないではないが、右はいずれも乙第一号証の記載に照しても、たやすく信用できないし、原告松田静夫、同松田洋一、同藤本晴生、同藤本徳太郎にいたつては自己の主張を立証するなんらの証拠も提出しない。他にこれを認める証拠はない。

そうだとすると原告ら主張の損害賠償を求める請求はいずれも理由がない。

七、してみると原告らの本訴請求は主文一、二項の限度においては正当であるから、これを認容するが、その余の請求は理由がないから失当として棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条を適用し、主文第二項についての仮執行の宣言はこれを付することが相当でないと認め、右申立を却下し主文のとおり判決する。

(裁判官 依田六郎 小川正澄 和田功)

図<省略>

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